
あなたは、大切な人や家族との別れを
経験したことがある人なら、
その悲しみ、寂しさを共感できるはずである。
そしてそれは決して、避けては通れない辛い経験。
私たちが、必ず寿命が尽きるのと同じく
そして、それがいつまでか誰にもわからないこととして
周りの人を送る側にもなることになる。
今日はレイキマスターとして、靈氣の伝授をするようになって
17年今でも学ぶべきこととの出会いに感謝しつつ
改めて、あなたの靈氣を手に入れてほしいと思っていることを
伝えていきたい。
目次
49年前の感覚を忘れていない
今年(2022年)5月20日は、私の父の祥月命日で
50回忌となる。
はっきり言うと、亡くなる前数年(いや1年くらいだったのかもしれない)
入退院を繰り返していたこともあり、
あまり父親の思い出はない。
父が亡くなった日は日曜で、
母と妹と、朝の台所の脇にある風呂場前の
二層式洗濯機がガーガー回っていた。
病院から電話があって、
母が慌てて、お隣の人にお願いして
私と妹の3人を車で病院に送ってもらった。
大部屋にいたので、
そんな重篤な病状だったわけではなかったと
思われる父は、
大部屋の奥のベッドで医者や看護師に囲まれ
同じ部屋に人達は誰もいなくて
母だけがベッドの脇まで行き
私と妹と送ってくださったお隣のおじさんは
廊下から部屋をのぞいていた。
その時、頭に浮かんだイメージで
父は死ぬんだと感じ取った。
そんなことない。と打ち消すのに
同じ感覚は何度も繰り返しでてくる。
どれくらいそうしてたか、わからないけど
気付いたら、ベッド脇に連れていかれて
動かない父を見た。
あの日の感覚は、何かわからないまま
今でもはっきり覚えている
見送るものとして受け取る感覚
特殊な感覚とも言えるのかもしれないが、
多分それは誰しもある感覚でもある
遠隔をしたときに、この感覚を感じる時
本当に悲しく、否定していく
何度も何度も否定していくが
やはり結果は変わらないことを
ここ数年で何度か同じ経験をしてきて
靈氣を習得したこと
靈氣を伝えていること
これらの意味を 考えざる負えない状況に陥り。
はっきり言ってかなり落ち込んだ。
抗っていても
正当化して考えようとしても
この苦しみは逃れることはできないもの。
そこで、目に留まったのが、
『涅槃経』お釈迦様が亡くなったエピソードが
つづられている物語要素のお経
その解説をされてた仏教学の佐々木閑先生は
「生きるのが辛い、この世が苦しい
という人のための処方箋が仏教だ」と
阿含経(お釈迦様の仏教に近い1番古い)
~大乗仏教の違いなどを聴いていくと
靈氣で伝えているものが、うっすら見えてきた
臼井甕男という人が伝えたかったこと
それは仏教の教えだったんじゃないか
しかも現代の私たちが知る宗教ではない
仏教学として、
その教えを自分の業(行動)にする方法として
苦しみの処方箋としての方法として
靈氣を伝えた人だったんじゃないかと思う。
鞍馬山で21日間の断食瞑想の上
悟りを開かれ、業(行動)に移された
麓の茶屋の目の見えない娘の目を
治してあげたというエピソードがある。
今私たちが考えている宗教というカタチではなく
必要な人に必要な時に必要なだけ
チカラになれる方法として
靈氣を手当療法として使うようになったんだと。
臼井先生の文献などは、あまり多く残っていない
と言われているのは、
仏教の教えの通り
我欲を捨て、愛(仏教では執着の意)を捨て
苦しむ人にその処方箋として伝えていただけで
大きく広げようとも
大きな集団を作ろうとも
偉い先生になろうとも
思っていなかったんじゃないかと思う。
五戒の書

この言葉の意味を改めてみると
時間軸としての世界観
五蘊(ごうん)や十二因縁(じゅうにえんぎ)
に表される精神世界
業(ごう)というカルマは、単に行動という意味
そして
人に親切に
ここの解釈こそ、自分なりの信じるもの
あなたらしく
ということになるのではないか
自分なりの靈氣を手に入れる
私は伝授のたびに、お伝えしているのは
自分なりの靈氣を手に入れてほしい
ということ
人は経験することでしか、学びとることができず
業をはげめ
は、経験を増やすという意味
経験は実際の体験だけでなく
本などを読むことでも著者の経験を得る
それらのことを繰り返すことで
今日丈 のタイミング 時間という概念を理解し
諸行無常 というこの世界の中で
人に親切に
という らしさ を手に入れる
そんな人生に達するとき
人はきっと苦しみを脱していくことに
なるのだと思う。
身近な人のお別れを感じとってしまうという経験は
私の学びをここまで進めてくれたことになりました。
あなたにこのお話が、
何かの気づくきっかけになれば
と書き残すことにしました。
克美